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ゴードン・D・フィー、ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために〔総論〕』(いのちのことば社,2014)
ゴードン・D・フィー、ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために〔総論〕』(いのちのことば社,2014)

 

本書は、私たちが聖書を読むときに、正しい聖書解釈がいかに大切であるかを述べた聖書解釈学の入門書です。

 

聖書は、書いてある文字通りに意味を捉えるだけでは誤った解釈を免れません。

聖書が書かれた時代と場所、文化をよく理解した上で意味を解釈する必要があり、そのためには優れた翻訳や注解書が助けとなります。

 

また本書では、注解書が強力なツールであるとしつつも、最初から注解書を見るのではなく、まずは自分自身でテキスト(聖書本文)をよく読み、研究することを推奨しています。

本書はその方法を記した案内書であり、従って注解書ではありません。

 

特に印象深かったトピックについて以下にまとめます。

最も確からしい複数の翻訳を読む必要性について

私たちは、聖書が書かれた言語であるヘブライ語、アラム語、ギリシャ語を理解できない限り、聖書の理解を翻訳に頼ることになります。

 

翻訳というものは、翻訳者の主観的解釈の影響を免れないことから、いかに優れた翻訳であっても完璧な翻訳ではありえないと言えます。

また、私たちが翻訳された聖書を読む時、知らず知らずのうちに自然と翻訳者の解釈を受け入れていて、神様の御言葉の真の意図から外れた理解をしている可能性もあります。

 

そこで本書は、優れた複数の翻訳を読むことで読者の偏った理解を避け、解釈学上の意見の相違が聖書のどの辺りに潜んでいるかを理解すべきであると提案しています。

良い注解書とは

著者らが考える「良い注解書」とは、解釈の幅広い選択肢について、すべての選択肢を謙遜に取り扱っている注解書です。

良い注解書は、解決策として提案されたさまざまな選択肢を、賛成・反対の理由も含めて列挙し、そして少なくとも短く議論しています。

あなたは個々の注解者の選択にいつも同意できるわけではないかもしれませんが、幅広い選択肢については知らされる必要があります。

そしてより良い注解書はこのことをしてくれるのです。

(本書108ページ)

 

本書には推薦される注解書のリストも付いていますが、上記の原則を心得ていれば、自分自身である程度は良い注解書かどうかの判断ができます。

特に推薦リストに載っていない新しく出版される注解書については、このような観点から吟味する必要があるでしょう。

新約聖書の書簡の正しい読み方

新約聖書の書簡には、食文化と密接に関わる「勧め」が出てきます。

市場に出回っている肉のうち、偶像にささげられた肉を食べてはならない、などです。

 

飲み物、食べ物といった食文化に関することだけでなく、着るもの、尊ぶべき日など、広く文化に関わる「勧め」は多いです。

これらの「勧め」を守りやすいかどうかは、キリスト者が属する文化によって異なってくるでしょう。

一世紀のキリスト者と二十一世紀の私たちとでは文化が異なるし、アジア、中東、ヨーロッパといった地理的な違いでも文化は異なります。

 

著者らは、例えば上記の偶像にささげられた肉に関して、「書簡を書いたパウロは食べ物自体には関心がなかった」と述べています。

霊感を受けて書かれた書簡ですので、パウロに関心がなかったということは、神もそれを意図していなかったということです。

この部分は単に、「つまずきの石」を避けるようにという、隣人への配慮から書かれたものなのです。

 

このように、書簡にある「勧め」は、あることはどうでも良いことであり、あることは重要なことです。

私たちにとっての問題は、重要なこととそうでないことをどうやって見分けるか、ということです。

 

著者らのガイドラインは次の通りです。

  1. 書簡がどうでもよい事柄として具体的に述べていることは、今でもそのようなものとみなしてもよい。すなわち、食べ物、飲み物、日を守ること、その他。
  2. どうでもよい事柄とは、たとえ宗教的な文化から生じているとしても、本質的に道徳的なことではなく、文化的なことである。したがって、文化によって違う傾向のある事柄は、誠実な信仰者の間においてさえも、通常はどうでもよい問題と考えてよい(例えばワイン文化と非ワイン文化)。
  3. 特に重要なのは、書簡の中の罪のリスト(ローマ書1章など)は、これら文化的な内容を決して含んでいないということである。さらに、キリスト者への命令のさまざまなリスト(エペソ5章など)にも含まれていない。

(本書124〜125ページから、引用者が一部変更して引用。)

 

このガイドラインは、何が罪かを考える時の大きな助けとなります。

日本にも宗教的、非宗教的にさまざまな文化があり、子供の1歳の誕生日にお餅を担がせることや七五三の祝い、結婚式等慶事での飲酒、墓参りなど、その多くが身近な問題です。

聖書が明確に禁止している罪のリストを大切にしたいものです。

 

もう一つ、印象的な文章を引用します。

神によって定められた文化というものは存在しない。

(本書127ページ)

 

つまり、キリスト教的文化とは、ある一定の型を示すものではなく、実に様々な形態をとりうる、ということだと思います。

文化で隣人を裁くことは神様の御心ではありません。

私たちが大切にすべきは、新約聖書が不変の証言を行っている次のようなことです。

キリスト者の基本的な倫理的応答としての愛、報復をしないという個人的倫理、争い・憎しみ・殺人・盗み・同性愛・酩酊・あらゆる性的不品行を悪とすること。

(本書129ページ)

 

Iコリント6:9〜10によると、性的不品行、姦淫、偶像礼拝、酩酊、同性愛行為、盗み、貪欲などは、「常に悪いこと」です。

従って、これらについては文化の違いを言い訳にして肯定することはできません。

旧約聖書の物語文の正しい読み方

旧約聖書の物語文は3段階のレベルで意味を持っており、最上段(あるいは上段)の意味を常に念頭において読まないと、正しい理解ができません。

 

第1のレベル、すなわち最上段は、「神のかたちの回復」というストーリーです。

人は神にかたどって造られましたが、サタンの形に似るようにそそのかされて、本来の形を失ってしまいました。

「サタンのかたち」から「神のかたち」へと人を回復させるのが、旧約聖書の物語文全体を流れる大きなストーリーです。

 

第2のレベルは、「イエス・キリストの贖い」です。

旧約聖書の物語文には、神のかたちを回復させる手段としてのイエス・キリストの贖いが、その根底に流れています。

このストーリーも決して見失ってはなりません。

 

そして第3のレベルが個々の物語です。

 

また、物語文を読む際に、重要な次の原則があります。

人々が物語文の中で行うことは、必ずしも私たちにとって良い手本ではない。

(本書168ページ)

 

私たちはしばしば、物語文の登場人物(特に神に用いられた人物)が行ったことを、私たちも真似てやるべきものと考えてしまいます。

しかし、そうではありません。

物語文は、そのように行動の規範となることを意図して書かれたものではなく、そもそも事実をありのままに書いただけのものです。

むしろ、様々な間違った行いをしたにもかかわらず用いてくださる神の憐れみを、そこから読み取るべきです。

 

手本とすべきではない行動の代表的な例として、ギデオンが羊の毛で神様の御心を試したことが挙げられます。

もし神様がギデオンを用いて勝利を賜る計画なら、その証拠として羊の毛にだけ露が降りるように、あるいは地面に露が降りても羊の毛だけは乾いているようにしてくれ、と神様に願って御心を試した箇所です。

ギデオンが神様を試したので、神様を試すことは推奨されるべきものであると、多くのキリスト者が考えてきました。

しかし、ギデオンの行動は手本とすべきではない行動です。

旧約聖書の律法の正しい読み方

例えば動物のいけにえをささげるなどといった内容の旧約聖書の律法(以下、「旧約律法」という。)は、私たちにとって到底守ることのできない掟であるし、私たちもまた、守る必要性を感じていません。

しかし、イエスは「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18)と言っており、一見すると、律法は依然として私たちが守るべきものであるようにも思われます。

旧約律法は、現在のキリスト者にとってどのような側面で機能しているのでしょうか。

 

本書の著者はまず、旧約律法の契約的性質を取り上げます。

 

神は……(中略)契約の形式を用いて、ご自身と臣下イスラエルとを結ぶ契約を構築したということです。

利益および保護と引き換えにイスラエルは、出エジプト20章〜申命33章に見いだされるような契約律法に含まれる多くの規定を守ることを期待されたのです。

 

神との関係を構築するのに、このような契約が必要だったということです。

しかしながら、著者らは続けて、「旧約聖書=私たちの契約」ではない、と述べます。

忠誠それ自体は今でも期待されています。

いくつかの点で変化させられてきたのは、この忠誠をどのように示すかです。

 

それでは、私たちに何が期待されているのでしょうか。

それは、市民律法や祭儀律法ではなく、道徳律法を守ることです。

旧約聖書の道徳律法のある面は、新約聖書の中で、キリスト者に適用できるものとして言い換えられています。

重要なことは、イエスがこれらの道徳律法を、隣人への愛という観点から再定義しているという点です。

 

著者らは、「旧約律法から明白に更新されているものだけを、新約聖書の『キリストの律法』の一部と考えることができる」と結論づけています。

十戒は、新約聖書の中で度々引用されているのでこれに含まれます。

また、際立って大切な戒めとして、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命6:5)と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)もこれに含まれます。

この二つの律法は神の性質を完璧に表現しており、それゆえにキリスト者の中に再生されるべきものです。

 

この単元の最後に、もう一つ興味深い内容がありました。

それは、律法はイスラエルの民へのプレゼントであった、ということです。

 

主なる神様は守りにくいルールを作ってイスラエルの民を束縛したわけではなく、このルールによってイスラエルの民は世の民と区別された生き方ができ、神の民のアイデンティティを保てるようになったのです。

 

実際、聖書に登場する正しい人は律法を喜んでいます。

著者は次のように述べます。

旧約聖書におけるイスラエルの問題とは、律法を守る能力がないことではありませんでした。

問題は、律法を守らないことを選択したことなのです。

(本書272ページ)

 

私たちにも律法を完全に守る能力はありません。

しかし、律法を守ることを選択し、守ろうと努力することはできます。

この生き方が、私たちに期待される神の民の生き方であり、新約聖書の時代以降のキリスト者の生き方であると思います。

 

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