スティーブン・R・コヴィー氏のベストセラー『7つの習慣』に、「終わりを思い描いてから始める」という習慣が出てきます。

簡単に言うと、いずれ来たる自分の葬儀の様子を黙想し、その時に弔問客にどのように言われたいか、ということを考えるのです。

そして、「弔問客にそのように言われるようになるには、今をどう生きれば良いだろうか」と考える。

このように、自分の葬儀から逆算して今現在の自分の行動を決めていくという習慣が、「終わりを思い描いてから始める」です。

葬儀は「終わり」なのか?

ぼくは『7つの習慣』のこの箇所を読んでいて、ふと、「葬儀が【終わり】なのか?」と疑問に思いました。

 

コヴィー氏の言っていることはこうです。

「終わりを思い描いてから始めるべき」→「終わり=葬儀」→「葬儀の様子を思い浮かべて、そこから逆算しましょう」

ですから、人生のゴールは【葬儀】ということになります。

 

・・・でも、本当にそうでしょうか。

【最高の葬儀】を迎えるために、ぼくたちは生きているのでしょうか。

葬儀でどれだけ褒められて、素晴らしい人間として人々に記憶されたとしても、それが何になるのでしょう。

これが人生の最終目標だとしたら、虚しいと思います。

 

ちなみにぼくはコヴィー氏の『7つの習慣』にはとても大きな影響を受けていて、全面的に賛同しています

決して否定している訳ではありません。

ただ、この部分については疑問が残りました。

地上の人生の「終わり」は何か

だいぶキリスト信徒の考え方になって恐縮ですが、ぼくにとっての人生の「終わり」は、【天国でイエス・キリストに会うとき】です。

【葬儀】よりももうちょっと先の話。

死んで、天国(パラダイス)に行って、審判者である神の子イエスの前に立つとき。

その瞬間が、とりあえずのゴールと思っています(地上の生涯が終わるという意味で)。

 

えー・・・。

こういう信仰の話はとかく独りよがりになりがちで、「訳わからんな〜」という皆さま、それが全然普通の反応だと思います。

ご容赦いただき、もう少しお付き合いください。

キリスト信徒の「良い」終わり方

じゃあですね。

天国でキリストに会うときがゴールだとして、どういう風にキリストから言われるのがいわゆる「良い終わり方」なのか。

 

これについては、聖書の言葉が手がかりになります。

新約聖書のマタイによる福音書25章21節に、キリストのこういう言葉があります。

忠実な良い僕(しもべ)だ。よくやった。

 

はい。たったこれだけです。

でも、これにはキリスト信徒的にとってもとっても深い意味があって、全ての涙をぬぐい去ってぼくらの存在全部を受け止めてくれる神様の想いがこもっているのです。

 

ぼくは天国で、イエス・キリストからこう言われたいのです。

「忠実な良いしもべだ。よくやった」って。

(注:「しもべ」はたとえ話の中に出てくるしもべのことで、ぼくらのことを召使いのように言っている訳ではありません。)

どうすれば「よくやった」と言われるのか

それでは、キリストから「よくやった」と言われるには、今をどう生きればいいのか

これがすなわち、ぼくにとっての「終わりを思い描いてから始める」ということになります。

 

再び聖書に手がかりを求めます。今度はヨハネによる福音書13章34節。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 

つまりキリストが願っていることは、「互いに愛し合うこと」なのですね。

 

ーー愛すること。

月並みですが、「愛すること」がぼくの今やるべきことだとわかりました。

この地上の生涯で、一生かけてやっていくこと。

最高のゴールである「よくやった」に向かって、着実に進める道。

最高に価値のある生き方。

最後に

「終わりを思い描いてから始める」という『7つの習慣』を真剣に考えたら、「今愛すること」という答えに行き着きました。

何をするかよりも、その行動にどれだけの愛を込められるか

仕事をこなすよりは、その仕事を通して、どのように神と人を愛することができるか。

家族への愛がいつもぼくと共にあるか。

 

これらがぼくの、大切な【価値観】です。