世界に目を向ければ、宗教上の対立が後を絶ちません。

ぼくはキリスト信徒で、宗教は「キリスト教」ということになるのですが、キリスト教会やキリスト教国にもやはり多くの争い、憎しみ、悪意、偽りがあります。

残念ですが、これが事実。

 

にも関わらず、なぜかキリスト教を信仰している人たちの多くは、キリスト教の良い面しか見ることができません。

自分たちの宗教は最高であり、それを知らない異邦の国は不幸である、と本気で思っています。

(誤解を恐れずに言えば、です。もちろん、そうでない人もいっぱいいると思います。)

日本人は何者か

先日、内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』を読み、キリスト信徒の生き方について深く考えさせられました。

内村鑑三『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』.

 

内村鑑三は、「Boys, be ambitious!」のクラーク教授で有名な札幌農学校(現在の北海道大学)で聖書と出会い、日本を代表する思想家となりました。

彼の著書を読むと、そこには切実な信仰の悩みが延々と語られており、その人生の旅路が決して楽ではなかったことがわかります。

命をかけて聖書と聖書の神、イエス・キリストに向き合った人でした。

 

そんな内村鑑三の半生を綴った著書『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』。読後、ぼくは「日本人」という存在について改めて考えました。

内村が生きた19世紀末、キリスト教国から見れば日本はキリストを知らない異邦の国。

日本人は、聖書の道徳に照らして実に低俗な道徳感覚しか持ち合わせていない遅れた民族だったわけです。

 

しかし内村は、夢にまで見たキリスト教国に渡航した後、キリスト教国に日本以上の争い、憎しみ、悪意、偽りがあることを目の当たりにしました。

ーーいったいキリスト教国とは何か。日本とは何か。

日本の道徳感覚とキリスト教国の道徳感覚

読んでいる最中、ぼくは次のことに気づきハッとしました。

それは「異邦人(日本人)の道徳感覚は、いわゆるキリスト教国の道徳感覚と照らして、決して劣るものではない」ということ。

・・・果たして、こんなことがあっていいのでしょうか?

 

でも、そう言えば、思い当たることが多々あります。

日本の静けさ、のどかな日々の営み。日本人の勤勉で誠実な人柄、思いやりや配慮、細やかさ、清潔な習慣・・・。

 

キリスト信徒であるぼくは、「聖書は唯一の神の言葉である」と言う教義を学んできました。道であり、真理であり、命である言葉。

それを持つ民は異邦の民から区別され、【神の民】として聖書の基準で生きる。

 

ですから、異邦の国である日本の道徳感覚がキリスト教国のそれに劣らないとは、およそキリスト信徒の考えることではありません。

下手をすればキリスト教を否定しているように聞こえるかもしれません。

 

しかし、もしかしたらこの感覚こそが、健全なキリスト信徒の感覚なのではないかと思うのです。

ぼくたちが知り得るのは真理の一部のみ

何度も言いますが、ぼくはキリスト信徒です。だから、ぼくにも思想上の優越感は色濃くあります。自分の信仰しているものこそ真理だ、と言う優越感。

でも、ここから一歩前進したい。

 

ぼくたちは真理である「それ」を知っているが、真理のすべてを知っている訳ではない。

真の謙遜とは、相手の信じていることを尊重し、「自分はすべてを知っている訳ではない」というスタンスで臨むことだと思います。

相手が信じていることの中に真理がないなどと、いったい誰が断言できるでしょうか?

実際、キリスト教国でない日本の道徳感覚のなかに、キリスト教国よりもいっそう聖書的な(つまり真実さを帯びた)道徳感覚があるのです。

 

ぼくたちキリスト信徒は、ただキリストによって「命」を得ているという点においてだけ、「優っている」と考えるべきです。

キリスト信徒は道徳で優っていますか?

うん、そういう人もいるでしょう。でもそこが本質ではない。

 

キリスト信徒のぼくも、キリスト信徒でない彼も、同じく神の憐れみを必要とする小さな存在。命を得るためにキリストを必要とする無力な存在。

そして、それ(キリスト)以外の部分で、彼にはたくさんの良い面があるということ。優れた、素晴らしい、愛すべき面があるということ。

問うべきは「真理とは何でないか」

それはそうと、キリスト信徒の言う「真理」って、何なんでしょうね。

ぼくはごく普通に「キリスト教には真理がある」みたいな言い方をしてきたんですが、「じゃあ真理って何?」と問われれば、何だかどれだけ言葉を尽くしても言い切ることができないのです。

 

「真理」は、もしかしたら人の言葉で言い表すことができないくらい、「人のレベル」を超えているのかもしれないですね。

内村鑑三はこの問題について、「真理とは何か」に答えることはできないが、「真理とは何でないか」には答えることができる、と言っています。

これまた深い洞察です。

 

ーー真理とは何でないか。

 

  • 悪ではありません。
  • 人を傷つけるものではありません。
  • 拝金主義ではありません。
  • 武力ではありません。
  • 特定の人だけのものではありません。
  • 弱い人を落ち込ませるものではありません。

 

などなど。

これらはみな聖書で語られていることで、確かにその通りです。

しかし、言うまでもなく真理は「それ以上のもの」です。

 

「真理とは何か」という問いは大きすぎます。

「真理とは何でないか」を限りなく積み重ねていくことで、「真理」を体験していくのではないでしょうか。

つまり、「光を描きたければその周りの闇を描く」というのが正しいやり方なのです。

内村鑑三の日本人評

最後に、内村鑑三の日本人評を本書から少し引用したいと思います。

下記は内村のお祖母さんについて書いている箇所。

(内村の祖母は)四十年の間、かよわい女の働きながら精いっぱい働きました。五十年間のやもめ暮しにもかかわらず、女手ひとつで五人の子供を育てあげ教育を授けました。その間、決して近所の信頼を裏切ることなく一度も借金をしませんでした。いまや祖母は八十四歳であり、その耳にはこの世の喧噪は届かず、くぼんだ目はいつも涙でうるんでいます。祖母は、その勇ましく戦い抜いた人生から解き放たれる日の訪れを心静かに待っているのであります。この祖母に見られるような気高い人生の情調が「異教国」にはあるのです。神学や哲学について論じうる人でありましても、祖母と同じ経験のない人は、祖母の神聖さに手を触れることはできません。どうかカミの霊のみ祖母の上に働き、その多くの試練に堪え抜いた魂にいかなるわざわいも来たりませんように。(内村鑑三『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』19〜20ページ)

これは内村鑑三が自分の祖母について語った内容です。内村の日本人評を最も端的に表していると思い、ちょっと長いのですが全文を引用しました。

キリストのいない人生を歩んだお祖母さん。しかし、その人生には自らの生を全うした人の【偉大なる神聖さ】があると言います。

その神聖さは、キリスト信徒であっても土足で踏み込むことの許されない尊いものであり、ただ神のみがそこに立ち入ることができるのです。

 

続いて、異邦の国である日本の「闇」、つまり日本に根付く昔からの世界観について書いている箇所。

(日本には)たしかに子供の情熱が手のつけられなくなるのを鎮める福音物語はありませんでしたが、男女を問わず若死にさせてしまう、いわゆるキリスト教世界の狂信と妄動を味わわなくてすんだのです。異教はたとえ暗黒の支配するところでありましても、それは月と星との支配するところであり、その光はかすかではありますが、静かでなかなか清らかであります。(同21ページ)

内村は日本の闇を「静かでなかなか清らか」と評します。キリスト教国の「狂信と妄動」を念頭において、です。

本当に、キリスト教国の優越は「ただキリストのみ」です。それ以外の部分で異邦の国に優っているとは決して考えるべきではありません。(実際に優っている部分はあるのですが。)

 

最後に、日本人の女性像について書いている箇所です。

当時、日本を含む異邦の国では女性の人権が軽んじられていましたので、キリスト教国の人々は盛んにそこを非難したわけです。しかし、内村の持っている女性像(女性に対する評価)は異なりました。

私たちの理想とする母、妻、娘の像は、キリスト教国での最高の女性像に比してさほど遜色は見られないのであります。人間を高めるキリスト教の影響がないにもかかわらず、そのなかには行為と人格とにおいてきわめてすぐれた女性がいるという事実があり、そのために私は彼女たちを尊敬しています。(同23ページ)

このように内村が考えるようになったのは、多分に家族の影響があったからだと思います。

立派なお祖母さん、お母さんだったんでしょうね。

 

以上です。今回はキリスト信徒の生き方について考え直すきっかけとなった一冊をご紹介しました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

参考文献

内村鑑三『余はいかにしてキリスト信徒となりしか